即席垂れ流し

備忘録のような何か

「善悪の彼岸」読書メモ

はじめに

タイトルの通り、これはニーチェ善悪の彼岸の考察や感想を垂れ流すメモになる。

プラトンパイドンを読み返した際もメモをつけていたが、保存する前にMicroso●tの陰謀によりPCが再起動し、メモは虚空へ消えた。

余談だが、パイドンを精読してみた結果イデアへの信仰が無事半壊した。

イデア論に心酔していた時期はいったい何だったんだろうと…

 第一章:哲学者たちの先入見について

2:この時点でニーチェソクラテスに強く賛同していることが伺える。具体的には、ソクラテスの「あらゆる存在は対として生まれる(例えば、善悪や美醜)」という考え方である。むしろ、何故実存主義に至るまでにソクラテス的な考えの哲学が生まれなかったのか不思議でもある。

4:人間の価値判断におけるドグマチックな記述がある。ドグマチックというのは、我々が行う物事の判断基準の起源に(さらっと)触れられている、という意味合いである。

5:上記の「ドグマ」はカントの場合の仮言命法も含むはず。

22:「あらゆるサイエンスは全て解釈に過ぎず、この世の法則そのものではない」という考えには賛同する、というか自分もそう考えていた。(メモというより感想か)

第二章:自由な精神

25:スピノザの「エチカ」の根幹をなす部分が誤謬だらけだったことは記憶に新しい。彼は公理的な道徳の構築を試みた(ように自分には見えた)が、開始数ページの時点で失敗に終わっていた。

30:書かれていることが全然理解できない。公教者と秘教者がそれぞれどのような存在なのか、がそもそも分からない(29における強者/弱者に相当するのか?)。文脈的には、前者が「低俗な魂」、後者が「高貴な魂」であると見受けられるが…

35:メモというより個人的な考えであるが、対となる2つの概念が生成されたとして、それらはただ対となっているだけであり優劣はないように思える。

第三章:宗教的なもの

54:我々が無批判に認めがちな因果律に関する指摘がされている。具体的には、「思う」という活動にはその主体(≒原因)となる「我」が必要である、という部分である。つまり、自己とは先天的に存在するものではなく、諸活動により切り出された(綜合としての)結果である、と解釈される。

62:「人間から奇形児を作る」について。「通常の」人間に対してキリスト教の、人間は不完全であり云々などと言った考えを刷り込み、本文中で挙げられているパスカルのような人間に変えてしまうことを指すと解釈した。

第四章:箴言*1と間奏

64:「認識それ自身のための認識」とは、カントが提唱した悟性のことであろうか。

70:ある人の性格とは、本来備わっているものではなく繰り返し現れる体験の綜合として削り出されたものである、という意味と解釈した。

95:不道徳を恥じること、それはすなわち不道徳と対生成する道徳それ自身を恥じることに他ならない、ということか。

108:道徳は人間の「内側」から生じたものではなく、単なる現象であり、我々が交点的な解釈を付けたものに過ぎない、という主張である。人間の内側にない、という点においては科学と同じなのではなかろうか?

152:「最近の蛇」とは、聖書の内容を大衆に向けて説教する宗教者を指すのであろうか。なんと女性的であろうか。

173:侮蔑や軽視は、憎悪よりも無関心に近い感情ではなかろうか。

第五章:道徳の自然誌のために

190:プラトンソクラテスの思想を大きく歪めた、という話があるが、そう主張する根拠がよく分からない。ソクラテスについて詳細に書かれた本は他にそんなにあったか?

191:道徳のドグマチックな非合理性の存在こそが我々の本性であり、それを正しく認識し、またその非合理性を後押しするような理性の再構成をソクラテスは目指していたのか?

201:「出る杭は打たれる」を仰々しく説明したように見えるが、自分の読解力不足だろうか。

第六章:われら学者たち

206:ジェズイット主義とはイエズス会を示すらしい。

208:生きる目的の「無目的化」への警鐘のパートだろうか。当時の世界情勢を後で調べる必要がある。

212:「平等」を「その集団に属する個々の間に何ら差が無い」状態であると解釈するなら、それは最早何も主張していない。つまり、それは不平等に対して無力である。本文中の「権利の平等は権利の不平等に容易に変化する」より。

第七章:われわれの徳

221:以前までの章に引き続き、人間の平等化(=等質化)の不道徳性が説かれている。善き行い、すなわちその人の徳を発揮するにはまずそれぞれの徳が異なることを認めざるをえない。この事実に目を向けず、等質化を実行することは見るからに不道徳である。以上が概ねの内容であるが、最後の一文「一粒の不正を加味することは、良き趣味に属することでさえある。」の意味が理解できなかった。

223:強調された「笑い」の意味とは?

227:あまりに聖なるもの、純粋なるもの、無垢なるもの、愚かなるものは一つのものの違う側面である、ということか?

238:「善悪の彼岸」が書かれた時代からフェミニズムが始まっていたと見受けられる。この段落付近では、前述の「生まれ持った才能の発揮が正しい」という概念を性別が受け持つ機能に応用して「女性の社会進出」をしつこく攻撃している。この問題に関しての僕の意見は書かないでおく。

第八章:民族と祖国

251:この本が書かれた当時からドイツにおけるユダヤ人への迫害は始まっていたのだろうか? 後世への影響は? いつかこれを見直したときに調べておこう。

252:陰鬱で、官能的で、意志強固で、残虐な種族ほどキリスト教をより一層必要とするのは、そのあまりに酷い汚点を隠すために多少マシな汚物を塗りたくる、という意味らしい。

256:最後の詩の真意は?

第九章:高貴とは何か

259:生そのものは(中略)、最も穏やかに見ても搾取である。この搾取こそが人の、社会の根本事実であるため人の等質化(平等化)を社会の根本原理とすることは本質を逆転させることに他ならない。

262:全然理解できなかった。後で読み返せ。

268:「言葉は概念に対する音符である」より、理解のは言葉そのものではなく言葉を伝わるニュアンスである。ニュアンスは経験によってのみ理解され、より多くに理解されるニュアンスは、頻繁に起こる、換言すると平凡な、情報量の少ない経験に包含されるものとなる。

270:これの付近が読んでいた時(2019/07/24)の僕の精神状態に近い

282:食事=幸福、食卓=いくつもの幸福が転がる社会、嘔吐=得た幸福の喪失と解釈される。

290:理解とは同じ経験の共有であった。そして、深い人間は自信の経験ー苦痛に満ちた経験ーを自分以外の人間が知ってしまうことを恐れている、という意味だろうか。その場合、虚栄心なき人間の理解されることへの恐怖、が説明できる。

293:同情させる、とは本来高貴なる者を自分と同じ畜群の中に引きずり下ろすことに他ならない。

 

*1:教訓の意をもつ短い句。戒めとなる言葉。

放置して半年

タイトルの通り、忙しくもないのに随分と放置していました。

この半年で読んだのはキルケゴール著「不安の概念」、ニーチェ著「ツァラトゥストラはかく語りき」位です。

より「深みのある」人間になれたかと聞かれれば?

否、否、三度否!*1

批判的に読む程の思考力も無い上に内容を覚える記憶力も無い*2

積読を増やしたけれど春休み中に読み切れるだろうか?

*1:ツァラトゥストラより引用

*2:ツァラトゥストラに関しては、自分の意見とほぼ同じものが出てきたりしたので許されたい。

省察を読了して

タイトルの通り、デカルト省察を一応読み終えた。

本文の前3割程度は、彼の着眼点や考察、比喩(特に蜜蝋の比喩)に感心させられた。しかし、それ以降の神に関する部分については循環論法的な議論を繰り返しているようにしか思えなかった。

この本は第1~6省察により構成されているが、第1,2省察以外はなろう小説と同じように読むかそもそも読まなくても良いと思う。

彼なりに注意力を研ぎ澄ませて議論しているのであろうが、所々に信仰に起因する論理の飛躍*1が見られる。本文中に「完全な存在である神が作った人間が容易く間違いを引き起こす」ことが神の存在に対する攻撃としてあり、それに対してデカルトは「神は完全に自由な意思を我々人間に与えてくださったが、我々の知識が不十分(=意思程には完全でない)ため正しい判断が下せない。真に自由な意思とは一切の迷いがないのだ」と言っていた。この言葉の特に後半には非常に納得させられた。しかし、それならばなぜ最初から完全なる意思に見合う知識を神は我々にお与えにならなかったのだろうか?デカルトの答えは「神を試すことはできない」だそうだ。

今までの話が台無しだ。「神を試すことはできない」という言葉はあらゆる神への攻撃を防げる。しかしその言葉のせいで彼の神への証明は反証可能性を失い、最早証明ではなくなってしまった。

最強の盾にも見える「神を試すことはできない」という言葉は議論の放棄であり、この言葉を彼が使ったのは非常に残念であった。

総括:循環論法だらけなだけでなく天下りに議論もどきの妄想を垂れ流していただけのカントの道徳形而上学よりは幾分マシだった。しかし、この本は問題提起の部分以外は真面目に読まない方が良いと思う。本当っぽい間違いのような議論(?)は聞いていて本当に疲れる。

 

補足:反証可能性という言葉を使ったが、これは"scientific"つまり科学的という言葉と等価である。これはウィトゲンシュタインの「語りえるもの」か否かの判断にも用いられる概念である。具体例を挙げると数学は実験を必要とはしないため科学(science)ではないが反証可能性を持つため科学的"scientific"である。神を試せるか否かが、正に科学的か否かの判断に答えを与えていると考えられる。

*1:例えば、神は完全でありその完全性に存在する必然性が含まれる。

酷暑により生まれた(?)疑問

 久々の更新ですが、現在はデカルト省察を読んで〼。線型代数どころかニュートン力学微積分が生まれる前の時代の科学者が書いた本だから余裕で読破できるだろうと高を括っていた時期もありました。省察を読み終えるのは8月頭位になりそうなので読み終えて何か思いついたら再び更新する予定。

 では生まれた疑問というのはウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙せねばならない」の「語りえぬもの」*1とは何であろうかというものである。

 本文の最後を私なりに解釈すると「世界がある、という神秘的なことの原因を神に委ね、その神について考察しても答えは得られない」となる。デカルトやカントのように神という観念を認めて*2形而上学的な論理展開を行った人々に対する批判(警告?)とも解釈できる。ならば「神という前提は何も帰結しない」と言わずに「語りえぬもの」と言った意図は何であろうか?

 「語りえぬもの」とは例えばキメラのように現実には存在しない生物の生態だろうか?いやそれは違う。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、この世に存在しないものについて語るのは単にナンセンスである*3。ナンセンスなものは想像で好きに設定できる。つまりナンセンスなものは言及した時点で全て「知られて」いる。よって、そもそもナンセンスではあるが、それについて語りつくすことは可能である。

 以上より「語りえぬもの」とは実在はするが我々の認識の限界にあるものでしかないことが分かった。では神以外にそれは一体何があるのであろうか?

*1:英語版でも"whereof one"とある。恐らく原著でも「語りえぬもの」と同等の抽象的な言葉が書かれていたはずである。

*2:省察を読み終えていないので具体的な評価はできないが、デカルトは一応神の存在に対するア・ポステリオリな証明を与えている。カントは突然神をア・プリオリに認めるので論外。

*3:現実世界にあるものと存在しないものを組み合わせたものが主語の文章は論理として偽となる。存在し得ないもの単体が主語ならばナンセンスである。つまり、ナンセンスなものと現実にあるものを組み合わせた主語は矛盾そのものつまり偽となる。2つの元(存在)からなる複合的な主語を「x A y」とする。x,yは集合(実在)もしくは(非実在)の元、Aは複合的な主語を作る演算子のようなものと定義した。Aは2つの元が与えられて初めて意味をもつためこれにエラーはない。先の言葉を数式にするとx,y∈(実在) ∩ x A y∈(実在)のときのみ意味を持つということになる。

今更生まれた解釈など

 友人Rから借りてる、ウィトゲンシュタイン著の論理哲学論考のどこか(かなり曖昧、嘘かも)に概ね「B.ラッセルは数学の先に理想言語があると考えるがウィトゲンシュタインは逆で、既にある自然言語がそれ自体で完璧であると考えている。論理哲学論考はその自然言語の論理構造に対する考察である。」といった記述があった。

 始めて読んだ哲学書がラッセル著の哲学入門だった上に理系の人間であるためか、僕も数学を極めた先に理想言語があるに違いないと思い込んでいた。しかしルソー著の言語起源論を読んで一度落ち着いて再考してみるとそれが誤りであると考えざるを得なくなった。そもそも言語の本質として、大まかな型は存在してもその起源と用途が偶発的かつローカルであることが挙げられる*1。一方理想言語はどうだろうか。「理想」を「最大の一般性」と解釈するならばそれは論理の塊であり、言語を名乗りながら言語ではなくなってしまう。

 前段落の保険として、論理ではなく言語として理想言語の存在を仮定しそれに対する考察を行う。再度「理想」の意味を明確にしなければならないが、ラッセルの著作の中ではしばしば「自然言語の不完全性は自らの発言を自ら誤解させ得る」ことが言及されていた。したがって彼の目指す「理想」とは深い考察を経ずに完璧な論理を記述できる状態であると考えられる(つまりは論理の塊であるが)。そのような言語を我々人間が手に入れたとして我々の知能がその言語の規則に耐えうるか、という疑問を僕は抱いた。何かを考える際にその論理構造にまで注意を払う機会は多くないどころか殆どないだろう。コミュニケーションにおいては相手を感情と直観、経験で「納得」させるのであって論理によって「理解」させることは非常に稀である。聖書がその好例であろう。よって理想言語は存在しても人類の誰一人として使用などできないことが推察される。

 最後に解釈を述べる。自然言語が不安定で誤解を生みうるものであるのは事実であるが、そもそも人の思考から漠然性を取り除けない(断片的かつ非常に局所的には論理的だが)。そのためむしろ自然言語は人の思考を「正しく」描写していることになり、その「正しさ」のことをウィトゲンシュタインは「自然言語の完全性」と考えたのではなかろうか。また、その漠然とした思考をいかに明白にするかこそが論理哲学論考のみならず哲学の目的ではないだろうか。

 

*1:言語起源論参照、この本質は結構適当に言ってるので反例が見つかったら教えてほしい

忘れてたことの1つ

院試まで残り1年ちょっとなのと英語が全く手付かずなのを忘れてた。意識の高い学科の人間はもう英語のテキストで対策を始めてるみたい。僕も何か始めないとね、とは思ってるけど無気力なので無理そう。どうしたものか

日記のようなもの

 酒を飲みながら書いているので日本語がいつも以上に崩れているかもしれないけどごめんね、と先に謝っておく。そもそも今日特別何かがあったわけでもないし特に言いたいこともないのだけど、何となく書きたくなったので書くよ。元々人付き合いが苦手な性格だったのもあるが、近頃特に人嫌いが悪化していて業務連絡的な会話以外しない生活が続いてる(実際楽なんだけど)。人嫌いが悪化し始めていた時期とかは毎日他人と関わることの面倒さを嘆いていたが、都合の悪いことはすぐに忘れられる鳥頭のおかげで今となっては特に何も感じなくなってる。何も感じないというか、関わらなくなったから興味を無くすことに成功したという方が正しいのかな。嫌いという感情はマイナス方向に興味関心を抱いてるものだけどそれって単に精神と時間を摩耗してるだけじゃん?だから僕は「これ嫌いになりそうだな~」って思ったら全力で距離を取る。距離を取れば2bitの脳味噌はすぐに忘れてくれる、って感じでいつも精神の安定を図ってる。以上のように目の前の好き嫌いだけで生きてるから計画性の欠片もない生活を送ってるよ。院試や院試、あと院試とか備えるべきものが多々あるにも関わらずモラトリアムの満喫をやめられない。禁酒が続かないのもそのせいだね。AmazonPrimeビデオでナショナルジオグラフィックの麻薬ドキュメンタリーを見たけど、そこで取り上げられてた麻薬/脱法ハーブ/幻覚剤依存を起こしてる人が薬物を使用してる姿を見ても羨ましいという感想しか抱かなかった。今手元にある酒よりも更に気持ちよくなれるのだし、アルコールだって肝臓を破壊して糖尿病を招くのだから薬物が特段危険とは思えないんだよね。薬に溺れてる人たちの表情は幸福に満ちていたから僕もあれになりたい。ここまで書いて何で自分がこれを書こうと思ったのか分かった。ブログを放置したくなかったのもあるけど、酒を少し飲んで時間と手間をかけてやるべきこととかを一気に思い出したからだ。精神衛生を考えると絶対にやるべきことがあるんだけど、それが先に述べた「嫌いな」ものに相当するから離れて忘れて思い出しては頭を抱えてる。ジジイ並みにボケが進んでるせいか自分が何から目を背けてるのかすら分かんない。今住んでるとこ場所のせいか玄関前にGや百足がめっちゃ湧くのしんどいし明日の昼飯フルグラか麻婆豆腐どっちにしようかな

追記:英語だと忘れるがforgetで許すがforgiveなの面白いね