即席垂れ流し

備忘録のような何か

省察を読了して

タイトルの通り、デカルト省察を一応読み終えた。

本文の前3割程度は、彼の着眼点や考察、比喩(特に蜜蝋の比喩)に感心させられた。しかし、それ以降の神に関する部分については循環論法的な議論を繰り返しているようにしか思えなかった。

この本は第1~6省察により構成されているが、第1,2省察以外はなろう小説と同じように読むかそもそも読まなくても良いと思う。

彼なりに注意力を研ぎ澄ませて議論しているのであろうが、所々に信仰に起因する論理の飛躍*1が見られる。本文中に「完全な存在である神が作った人間が容易く間違いを引き起こす」ことが神の存在に対する攻撃としてあり、それに対してデカルトは「神は完全に自由な意思を我々人間に与えてくださったが、我々の知識が不十分(=意思程には完全でない)ため正しい判断が下せない。真に自由な意思とは一切の迷いがないのだ」と言っていた。この言葉の特に後半には非常に納得させられた。しかし、それならばなぜ最初から完全なる意思に見合う知識を神は我々にお与えにならなかったのだろうか?デカルトの答えは「神を試すことはできない」だそうだ。

今までの話が台無しだ。「神を試すことはできない」という言葉はあらゆる神への攻撃を防げる。しかしその言葉のせいで彼の神への証明は反証可能性を失い、最早証明ではなくなってしまった。

最強の盾にも見える「神を試すことはできない」という言葉は議論の放棄であり、この言葉を彼が使ったのは非常に残念であった。

総括:循環論法だらけなだけでなく天下りに議論もどきの妄想を垂れ流していただけのカントの道徳形而上学よりは幾分マシだった。しかし、この本は問題提起の部分以外は真面目に読まない方が良いと思う。本当っぽい間違いのような議論(?)は聞いていて本当に疲れる。

 

補足:反証可能性という言葉を使ったが、これは"scientific"つまり科学的という言葉と等価である。これはウィトゲンシュタインの「語りえるもの」か否かの判断にも用いられる概念である。具体例を挙げると数学は実験を必要とはしないため科学(science)ではないが反証可能性を持つため科学的"scientific"である。神を試せるか否かが、正に科学的か否かの判断に答えを与えていると考えられる。

*1:例えば、神は完全でありその完全性に存在する必然性が含まれる。