即席垂れ流し

備忘録のような何か

今更生まれた解釈など

 友人Rから借りてる、ウィトゲンシュタイン著の論理哲学論考のどこか(かなり曖昧、嘘かも)に概ね「B.ラッセルは数学の先に理想言語があると考えるがウィトゲンシュタインは逆で、既にある自然言語がそれ自体で完璧であると考えている。論理哲学論考はその自然言語の論理構造に対する考察である。」といった記述があった。

 始めて読んだ哲学書がラッセル著の哲学入門だった上に理系の人間であるためか、僕も数学を極めた先に理想言語があるに違いないと思い込んでいた。しかしルソー著の言語起源論を読んで一度落ち着いて再考してみるとそれが誤りであると考えざるを得なくなった。そもそも言語の本質として、大まかな型は存在してもその起源と用途が偶発的かつローカルであることが挙げられる*1。一方理想言語はどうだろうか。「理想」を「最大の一般性」と解釈するならばそれは論理の塊であり、言語を名乗りながら言語ではなくなってしまう。

 前段落の保険として、論理ではなく言語として理想言語の存在を仮定しそれに対する考察を行う。再度「理想」の意味を明確にしなければならないが、ラッセルの著作の中ではしばしば「自然言語の不完全性は自らの発言を自ら誤解させ得る」ことが言及されていた。したがって彼の目指す「理想」とは深い考察を経ずに完璧な論理を記述できる状態であると考えられる(つまりは論理の塊であるが)。そのような言語を我々人間が手に入れたとして我々の知能がその言語の規則に耐えうるか、という疑問を僕は抱いた。何かを考える際にその論理構造にまで注意を払う機会は多くないどころか殆どないだろう。コミュニケーションにおいては相手を感情と直観、経験で「納得」させるのであって論理によって「理解」させることは非常に稀である。聖書がその好例であろう。よって理想言語は存在しても人類の誰一人として使用などできないことが推察される。

 最後に解釈を述べる。自然言語が不安定で誤解を生みうるものであるのは事実であるが、そもそも人の思考から漠然性を取り除けない(断片的かつ非常に局所的には論理的だが)。そのためむしろ自然言語は人の思考を「正しく」描写していることになり、その「正しさ」のことをウィトゲンシュタインは「自然言語の完全性」と考えたのではなかろうか。また、その漠然とした思考をいかに明白にするかこそが論理哲学論考のみならず哲学の目的ではないだろうか。

 

*1:言語起源論参照、この本質は結構適当に言ってるので反例が見つかったら教えてほしい