即席垂れ流し

備忘録のような何か

5月に夏バテしたオタクの妄言

 5月なのに気温が30℃を超えるという地獄に遭遇し、パンツ一枚でTwitterを眺めてたところ興味深い独り言を見つけ、それに対する誰かのリプの中に小さな問題点を見つけたのでそれについて少し。ツイート内容は

個人的な体験をもとにして、全人類に演繹的な判断を下すなよ 自分がこうだから他人だってそうだろなんて発想は、甕の裡にいる醯鶏からしか出てこない

*1というものだった(勝手に引用してごめんね)。ここではこの主張が演繹的か帰納的かについての考察を行う。ぶら下がってたリプには「個から一般を導いているのだから帰納」とあった。その主張は一見正しく、演繹的というところを帰納的に変更する方が適切かもしれない。しかしそこには小さな問題が潜んでいると考えられる。その問題を明確にするための準備を少し行う。経験に基づかない判断すなわちア・プリオリな判断を下せる人間が果たして存在するのであろうか*2。もしそんな人がいるならば全ての学問は不要になるし、きっと彼は賭博に勝ち続け5000兆円の資産を築くのだろう。個人的な経験に基づいた判断の否定は冤罪による死刑判決のようなものではなかろうか。判断のための思惟は自然言語で行われるが、その際に自らの言葉を吟味しようとすら思わない者の方が多いのではないかと私はしばしば思う(私もその内の一人だが)。暗記はしているがその意味は漠然としか覚えていない言葉の使用は誤解という深刻な問題を招く。その深刻さというのは話す相手に自らの意図を正しく伝えられないことではなく、話している当の自分すらも自らの言葉で誤解をし得るということである。以上を踏まえて誤解を明確にする。結論は、「個から一般」を導いているのは確かであるが、帰納的にも演繹的に導いていると解釈できる点が問題であり誤解を生みうる、である。説明を少ししよう。帰納法は原理的に真理に辿り着くことはできない。つまり、帰納的に導くとは「今までに得たサンプルの性質がAであるから次に得るものの性質はAであろう」という推測であり「次に得るものは必ずAである」と断言することではない。前述のツイートの具体的な背景を私は知らないため「自分がこうだから他人だってそうだろ」の最後の「だろ」のニュアンスが推測なのか断言なのかは不明*3である。前者であればサンプル数の足りない未熟な帰納法、で片付く。しかし後者の場合は一気に深刻になる。自分という前提条件から他人という事例を演繹していることになってしまうのである*4帰納に用いられるはずの特例から演繹がなされることに多くの人が気付きもしないことこそが真に恐れるべき問題ではなかろうか。つまり本人の意図の裏の裏を経由し、先のツイートは判断の論理構造に関する結構重大な問題点を示唆していたことになる。

 

*1:読めないところは「見識が狭く世間の事情がわからない人のたとえ」みたいな意味らしい。俺かよ

*2:判断というものは人がある対象に関する情報を受け取りそれに対し思考を行い断定する、といったものである。客観性≒一般性(≒ア・プリオリ)および主観性≒特殊性(≒ア・ポステリオリ)という解釈の元における判断とは客観の主観化であると私は考える。

*3:調べてみたところ、「だろ」は断定と推定が混ざった言葉であるため誤解を産みやすい(自由な解釈をしやすい)。「おうりけいけい」を意味する部分は漢検1級所持者やそれに準ずる者でない限りまず辞書を引かねばならないため逆に安全である。普段から使い慣れている余りその詳細な意味に注意を払わないことが他人だけでなく自己に対する誤解の原因となりうる。

*4:エスカレーターを逆走しているようなものである。これは深刻な割には広くみられる現象で、「B⇒C(BならばC。BとCは文章である)でないというのはおかしい」といった主張の中に頻繁に見られる。おかしいという表現もまた面倒な言葉で、嗤う方を除いた原始的なニュアンスとしては概ね「普通でない」という意味であるが一体「普通」とは何であるのか。私の経験だとその普通とは多くの場合世間の一般常識ではなく、ある人が普段から常に信じている事柄であるのだ。つまり、「全ての人が常に持つ知識」という意味の常識ではなく「ある人が常に持っている認識」が常識と化しその常識が「普通」を規定するために筋の通らない「おかしい」が生まれる。そりゃあお前の妄想と現実が一致するわけねえだろと